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四川省の楽山大仏
真の美しさを求めて
神韻芸術団のダンサーとして、自分の糧になると思い、中国の伝統文化の美観を掘り下げることにした。今、真の美しさというものが分かるようになってきたと感じている。
古代芸術は、天と地、天上の神々、自然などのテーマを中心に生み出されている。古代の詩も踊りも音楽も、神々を讃え、謙虚に畏敬の念を表現し、祈祷を捧げる形式が多く見られる。
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佛、天上の仙女、その他の神々の絵画や彫刻は、今でも遠隔の地の洞窟に残されている。最も知られているのは、中国北西部・敦煌近郊の千仏洞や四川省の楽山大仏だ。古代に作られた壮麗な光景は、今も人々を感嘆させている。
中国の思想を紐解く
道家も儒教も、「簡素」を美であり至高とする。
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「虚静恬淡、寂漠無為は、天地の平にして道徳の至りなり」(天道篇)
(無心に静けさを保ち、欲望に動ぜず淡々とし、静まって作為から離れることで、天地は安定し、道徳の極致があらわれる)
孔子は、外の美しさや粉飾を求める以前に、自己の徳と内面の美を基礎とすることを説いている。「簡素」の追究は「正統」の追究だと思う。飾り気のない「簡素」とは真の状態に帰心すること。つまり、物事の本源の現れだ。
孔子は、「真実」の理解についての説明をある客人に尋ねたことがある。その客人は次のように答えている。「本当の真実とは、最高の水準での純粋な誠意です。この純粋な誠意がなくては、他人は動かせません…「真実」を内に修めることで精神性が現れるので、実に貴重なものだと見なしています」
現代社会は、欲や好みを焚きつけるような物で囲まれている。純粋で簡素な、生まれながらの性質が埋もれてしまい、本当の自分を見失いがちだ。鑑賞する人にインパクトのある内面の世界を表現することが芸術であるならば、アーティストは自分の思考の領域を高めて初めて、他人にインスピレーションを与えるような芸術を生み出せるのではないだろうか。
和を重んじる
「和」に関する伝統的な捉え方も実に奥深い。古代人は「中庸」をも含む「和」を重んじる。極端を避け、中道にいるということだ。
孔子の孫である子思は『中庸』のなかで「中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり」と記している。
「和」は包容性が高い。社会のあらゆるレベル、国籍、文化の壁を超えて、すべての人々を包み込む。
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「何かを見る時、上からでも下からでも、中からでも外からでも、細微にわたっても大まかに捉えても、近くでも遠くでも、すべての関係が融和し、不調和なものがなければ、それは美である」
この水準のものを生み出すことは容易ではない。7世紀の唐の太宗は「正義と公正がなければ和は成りえない」と語っている。「和」の境地に至るには、徳が高く公平で、寛容な視野を持ち合わせる必要があるということだ。専心して学び、内省し、常に完璧を心がけ、生涯かかって成せることだろう。
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エバンジェリン・ジュー(朱頴姝)
プリンシパル・ダンサー
Principal Dancer